Kのホームページ

[なんとも あじけない、雑文だけの ホームページ]

Kのメールアドレス:k123■k123.tokyo
(「■」を「@」に変えてください)


新年〔兼 通年!〕のメッセージ
超常現象を求めて
 能から大衆演劇まで 
 私の好きな音楽
「つばなれ」
コストをかけずに良い音を聴くには
コドモの頃の夢
なぜ宇宙は存在するのか
やりたい事
楳図かずおが好き!〜『まことちゃん』の世界
スタッフが女性だけの理髪店
漢字の廃止を説く
英語が国際語になっていいのか
無線仲間のみなさまへ

 新年のごあいさつ

◇ 寒中お見舞い申し上げます。

◇ まず、このおもしろくも何ともないホームページをお訪ねくださいましたことに、感謝申しあげます。普段はなかなかお会いできない方々のために、私の近況報告として、こんなものを作っております。1年に1回だけの更新です。

◇ 昨年は、身内を亡くしたり、引っ越しをしたり、といろいろあって、何もできませんでした。

◇ このようなわけで、今回、独自ドメインを取得しての更新ですが、内容を追加することができませんでした。

◇ 本年もよろしくお願いいたします。

                  (2016年1月)

◆過去のメッセージ

トップへ

超常現象を求めて

 「超能力」とか「心霊現象」「UFO」のような、いわゆる「超常現象」というテーマは、実は私、大好きなんですね。ロマンがありますからね。それで、「超能力の実験会」とか「交霊会」とかには、結構参加して観察してきました。その結果、得たものは・・・。
 まず、「超能力」について。
 世に「超能力者」と称される人は少なくありません。しかし、「超能力者」といえども、常に安定したパワーが発揮できるとは限らないようです。彼らは言います。「超能力の存在に疑いをいだく人がいると能力が発揮できない。」「参加者の視線が集中すると精神統一ができず、成功率が下がる。」などと。しかし考えてみると、彼らが「能力」を発揮しやすい条件−−−観察者の中に疑う者がいず、しかも凝視されない−−−というのは、実はトリックを行うのにも最適の条件なのです。しかも、彼らの見せる「超能力」のうち、トリック(手品)でできないものはまずありません。(スプーンなど手の力でかんたんに曲がります。)「超能力」の正体はあきらかではないでしょうか。事実、あの有名なユリ・ゲラーも「超能力者」として売り出す前は手品師でした。
 トリックというとカラクリがあるものですが、中には特に仕掛けの必要のない「超能力」もあります。その手口を一つだけ紹介しておきましょう、ある「超能力者」はテレビで呼びかけました。「私は壊れた時計を超能力で再び動くようにすることができます。私のパワーを皆さんに送ります。皆さんもできるようになります。さあ、やってみてください。」これを見ていた視聴者が動かなくなった時計を握りしめ、念力を送る。すると、フシギなことに本当に針が動き出す。放送局には全国から「本当に動いた」という電話が殺到する。これは実際に起ったことです。でも、冷静に考えれば、何のフシギもないことが分かります。時計は、潤滑油が古くなると、固まって歯車の回転を止めてしまうことがあります。当然、針が止まってしまいます。しかし、その時計を長く握りしめていると、固まった油が手の熱でとけて歯車が再び回転を始める。針が動き始め、時計が直ったように見える。というワケです。
 次に「心霊現象」について。
 「心霊現象」といってもイロイロありますが、そのうち「霊界通信」の一つの形態である「霊査」の場には、私は数多く立ち合っています。これは「霊能者」が人の「背後霊」(いわゆる「守護霊」や「因縁霊」)と直接会話を交わしてメッセージを受け取ったり、好ましくない霊がついている場合はその霊を諭して去らせる(「除霊」)、というようなことをするものです。ところが、そのメッセージですが、たとえば、埋蔵金の在りかを教えてくれて、その場所を掘ったら本当に出てきた、というようなことがあれば、本当に霊からの通信であると証明できるのですが、実際にはそのような内容のメッセージはありません。「霊能者」がデマカセを言っているのだ、と言われても仕方のないものばかりです。
 それに、本当にそのようなことができるのなら、解決できない事件などないでしょう。たとえば、弁護士がある宗教団体に殺害される、という事件がありましたが、彼はなぜ霊界からメッセージを送ってこなかったのでしょうか。そのようなメッセージを受け取ることのできる「霊能者」が一人でもいたならば、事件はもっと早く解決していたでしょう。また、北朝鮮によるラチ問題にしても、被害者の消息がわかるはずです。
 では、「霊能者」とはサギ師なのでしょうか。確かにそのようなケースもたくさんあります。しかし、全部がそうとはいえません。私が観察した多くの「霊能者」も、ウソをついているとは思えない人が大半です。彼らが口にすることは架空のことなのですが、彼ら自身は、真実を語っていると信じているのです。これはどういうことでしょうか。それは、精神医学が明らかにしています。彼らは「多重人格症」などの精神疾患があるか、精神疾患とは言えないまでも非常に暗示にかかりやすい傾向があるか、なのです。これが私の結論です。
 というワケで、「超常現象」の真相を求めて観察を続けてきた結果、現象そのものを否定せざるをえない、という結論に至ったのであります。
(2001年8月)

トップへ

能から大衆演劇まで

 私の趣味っていろいろあるんですが、観劇もその一つです。
 歴史の古いものからいうと、まず能。一時、といっても10年以上も前のことですが、かなり興味を持ちまして、能楽堂に通いつめました。観世、梅若、矢来、宝生、喜多、銕仙会、国立、と、東京にある能楽堂はほとんど訪れたのではないかと思います。こんなことを言うと、「高尚な趣味をお持ちで。」などと言われるのですが、実をいいますと、初めは熱心に見ていても、途中からどうしても眠くなってしまうんです。幽玄の世界に魅せられてはいても、理解はできていなかった、という証左であります。
 次に、歌舞伎。特に詳しい知識はなくとも、あの様式美は十分楽しめますね。これも、月に5回も見に行っていたことがあります(歌舞伎座の昼の部と午後の部、新橋演舞場の昼の部と午後の部、それに国立劇場)。結婚してからは、さすがにそのようなゼイタクはできなくなりましたが。
 ミュージカルなども華やかで楽しいですが、渋い?新劇もいいですね。私はかつて、ある劇団の定期会員になっていて、10年以上のあいだ、ほとんどの公演を見に行きました。鬼気迫るリアリズムの芝居には、魂を揺り動かされます。劇団民芸の宇野重吉の最後となった公演(それも、私が見たのは千秋楽の1日前)は、忘れられません。
 今は、「アングラ」なんてコトバが使われているのかどうかは知りませんが、いわゆるアングラ芝居もよく見に行きました。観客より出演者の方が多いなんてこともザラでしたが、ネコのヒタイほどの劇場(だけとも限りませんが)での観劇も独特の趣があるんです。もっとも、この手のものは、玉石混交で、プロ級(本当のプロもいるでしょう)のものから、まったくのシロウトがやっていて、論評に値しないものまで様々でした。演劇を志しながらも、食べていけないので、アルバイトをしながら芝居を続けているような人も、そのころはかなりいたようです。
 私は、今は芝居を見に行く余裕がないのが、大変残念であります。

 おもしろくも何ともないことを書いてきましたが、最後に、「大衆演劇」について少し紹介しておきます。(実際に見たことのある人はあまりいないと思いますので。)大衆演劇を行っているのは、旅回りの劇団で、世話物というか、人情話を主とした時代劇を演目にしており、家族ぐるみで構成されているものが多いようです。これが、結構人気があって、劇団によっては会場に入りきれないほどの観客がつめかけます。芸術的価値となると疑問符がつきますが、プロの集団ですから、大衆受けする演技力はそれなりに備えています。芝居が終わると、踊りが始まります。演歌などに合わせたオリジナル?の踊りですが、日本舞踊をベースにしたものです。最後に歌謡大会。カラオケで役者が歌うのですが、その間に信じられないようなことが起こります。ファンが、歌っている役者の帯や胸元にお札(もちろん万札)を何枚も挟み込むのです。それも見た目には金持ちには決して見えないオバサンたちがそうしているのです。役者によっては、それだけで1日数十万円にもなるでしょう。それも、休みなしで、1か月ほども連日興行をしますので、こういった「ご祝儀」(税金がかからない!)だけでも、かなりの収入になるのではないかと思われます。こうなると、とても役者はやめられないでしょうね。まあ、こういう世界もある、ということで。(2004年12月)

トップへ

私の好きな音楽

 私の人生は、ザセツの連続でしたが、それでも一貫して真善美を追求してきました、なんて大げさなことは恥ずかしくて書けませんが(書いてしまった!)、美しいものは大好きです。
 でも、フシギなことに視覚的なものは弱いんです。例えば、花を見て美しいと感じないワケでもないのですが、花を楽しむために買おうとか、育てようとか、まして絵に描こうとかいういう気持ちはまったくないんです。それに対し、聴覚的な美には言いしれぬ陶酔感を覚えます。一級品の美術作品を見ても涙がでるほどの感動を感じたことはありませんが、涙なしに聞けない音楽なら数知れずあります。あえて私の独断を言うならば、クラシック音楽こそ最高の芸術であります。
 私が中学生・高校生のころ聞いていたのはもっぱらポップスでした。ところが、大学生のときに、たまたま家にあった、ベートーベンの第五交響曲(「運命」)を改めて聞いてみて、衝撃を受けました。クラシック音楽とは、こんなに すばらしい ものだったのか、と。音楽を料理に例えるなら、クラシックはフランス料理のフルコースのようなものです。それ以来、クラシックにのめり込みました。初心者の私は難解な曲は理解し難いので、クラシックの中でも比較的ポピュラーなものから聴き始めました。
 そのような曲の中で特に好きなのは、思いつくままに書くと、ベートーベン:交響曲第3・5・7・9番、ピアノ協奏曲第3番、ピアノ・ソナタほぼ全曲、シューベルト:交響曲第9番、シューマン:クライスレリアーナ、交響的練習曲、交響曲第1・3番、ショパン:ピアノ協奏曲第1番、シベリウス:バイオリン協奏曲、チャイコフスキー:交響曲第5番、マーラー:交響曲第3〜8番、ブルックナー:交響曲第5〜9番、ベルク:バイオリン協奏曲などなど。どちらかと言うと大曲好み。ベートーベンのピアノ・ソナタ全集(CD)など7セットも買ってしまいました(バックハウス、グルダ、ゼルキンなど)。バッハや、モーツァルトなどは、偉大すぎて選びようがありませんね。バッハのゴールドベルク変奏曲(グールド)など、半年も毎日聴き続けましたが、全然飽きませんでした。
 しかし、クラシック音楽の真髄は、なんといっても宗教音楽です。バッハのミサ曲ロ短調、マタイ受難曲を初めとする人類の至宝ともいうべき大傑作群、また、モーツァルトのミサ曲やレクイエムなどの大傑作。ロマン派以降も数多くの名曲が作られています。例えばドイツ・レクイエム。私はブラームスはそれほど好きではないのですが、この曲だけは大傑作だと思います。涙なしでは聴けない音楽とは、まさしくこれらの曲なのであります。
 私は無宗教ですが、これらの曲の精神性の深遠さには、圧倒されてしまうのであります。 (2004年12月)

トップへ

「つばなれ」

 皆さんは「つばなれ(つ離れ)」というコトバをご存じでしょうか。ヨセ(寄席)などで使われるコトバなのですが。
 ヒント。数字を「ひとつ」「ふたつ」・・・と数えてみてください。
 わかりましたか? 最後に「つ」がつきますね。そして、「とお」になって、「つ」がつかなくなります。これは、「つ」のつかない数、つまり「とお(10人)」以上の数の客が入った、という意味のコトバなのです。テレビなどのない時代には、娯楽も少なく、落語などのヨセ芸も集客力がありましたが、現在ではヨセの数も少なくなりました。それでも、落語はまだよいのですが、講談や、特に浪曲(浪花節)の人気のチョウ落は、著しいものです。
 もう10年以前のことですが、浪曲が絶滅寸前である、ということを何かで読み、マイナー志向の私は、浪曲に興味を引かれました。講談は入門者も結構いるが、浪曲は後継者がいないので、今のうちに聞いておかなければ、生では聞けなくなる、というので、一時、浅草の「木馬亭」という浪曲専門のヨセへ通いつめました。
 ところが、これが、「つばなれ」しないことが、珍しくないんですね。10人にも満たない客を相手に語る(浪曲は音楽ではなく、語り物ですので、「歌う」のではなく、「語る」または「口演する」と表現します)のは、張り合いがないと思われますが、聞いている方も辛いものがあります。大体、ヨセでは、木戸銭(入場料)は、席亭(興行主)と出演者で折半ということになっているようなのですが、これでは、一日の興行で10人を超す浪曲家や曲師(三味線引き)に入る出演料は交通費にもなりそうもない、などということをつい考えてしまうのですね。
 しかしです、心を打たれたのは、客も少なく、収入にもならないのに、手を抜かず熱演していることでした。本当に浪曲という芸を愛していなければ、できないことです。
 とは言いながら、このような現状ですから、新弟子の数もごく少なく、本当に絶滅してしまうかもしれません。事実、現在、広沢虎造や、玉川勝太郎、天津羽衣といった、かつての名手の名跡を継いでいる人はいません。確かに浪曲のストーリーは、文字どおり、浪花節的であり、現代にマッチしたものではないので、かつての隆盛を取りもどすことは、ありえないでしょう。しかし、この芸が消滅してしまうのは、惜しい。たとえ少数でも、この芸を継いでいく人がいて欲しい、と願わずにはいられません。
  (2003年12月)

 〈追記〉 玉川福太郎師の逝去を悼む
 2007年5月23日、玉川福太郎師が事故のため急逝されました。享年61歳。その芸は、豊かな朗々とした声量で、節、タンカともに迫力のある、すばらしいものでした。また、後進の指導にも力を入れておられ、いずれは、四代目勝太郎を継ぎ、浪曲界の活性化にますます活躍されると思っていましたので、大変残念です。
 また、個人的にも、私は師とは片手で数えられる程ですが、酒席をともにさせていただいたり、色紙にサインをしていただいたりしたこともあり、その暖かいお人柄にも親しみを感じておりましたので、胸が痛くなります。つつしんでご冥福をお祈り申し上げます。 (2007年12月)

トップへ

コストをかけずに良い音を聴くには

 音楽を聴くなら生演奏が一番かもしれませんが、そうしょっちゅうコンサートにいくワケにもいきません。好きな時に好きな音楽が聴けるCDなどのパッケージ・ソフトは無くてはならないものです。CDなども、できれば良い音で聴きたいものですが、オーディオ装置は金さえかければ良い音が出る、というものではないところが難しい。もっとも、CDプレーヤーやアンプなら、定評のあるメーカーのものであれば、価格相応の効果が期待できるでしょう。問題はスピーカーです。
 スピーカーの音質は、部屋によって大きく左右されます。どのような部屋にも固有の音響特性(定在波や残響など)がありますので、よそで聞いて気に入ったスピーカーでも自分の部屋において聞くと全然違った音になってしまうのです。では、どのような部屋なら良い音が出せるか、ということになりますが、まず、部屋以前に建物が問題です。木造の建物ではまず良い音は出ません。鉄筋コンクリートであるというだけでも不十分です。岩盤に達するまでクイ打ちをする必要があります。ですから、建物を用意するだけで、少なくとも数千万円は必要となります。
 では、それだけのお金をかけられない人は、良い音を楽しむことはできないのでしょうか。そんなことはありません。ヘッドフォンを使うという方法があります。ヘッドフォンならば、音を直接耳に送り込むので、部屋の特性に左右されることがありません。ただし、ヘッドフォンなら何でもいいというワケではなく、「コンデンサー型」と呼ばれるものが断然すぐれています。これはわずか数ミクロンの厚さのフィルムに駆動力をかけて音を発生させるもので、極めて繊細な音を得ることができます。巨大スピーカーのような重低音は無理ですが、透明感、生々しさという点では、並みのスピーカーではとうてい得られない音質を味わうことができます。(2001年8月)

追記
 昔は、男の趣味というと、オーディオに凝っている人が多かったのですが(レコードは数枚しか持っていないのに、カートリッジは10個以上も持っている人なんて、よくいました)、この業界も見る影もなくなりましたね。「オーディオの御三家」の一つと言われた某社の株価など見ると、泣けてきます。伝統ある「オーディオ・フェア」も「AVナントカ」に変わってしまったし。  (2003年12月)

トップへ

コドモの頃の夢

 私がコドモだった頃の夢。それを語る前に、私が好きだったテレビ番組について書きたいと思います。なぜなら、今もそうでしょうが、コドモというものは、テレビやマンガ雑誌に大きく影響されるものですから。
 私が夢中になっていたテレビ番組はタクサンありましたが、そのうち特に好きだったのを3つだけ挙げるとしたら、「鉄腕アトム」「宇宙船シリカ」「隠密剣士」でしょうね。
 「鉄腕アトム」といっても、アニメのやつじゃありませんよ。アニメ化される前の実写物。主題歌は、「ぼ〜くは、良い子だ〜。鉄腕アトム〜」というものです。これを見たことのある人はあまりいないでしょうね。(これで、私の年齢がわかってしまいますねえ。困りましたねえ。)特にアトムたちが火星へ行く場面などワクワクしながら見たものです。手塚治虫の原作とはかなり違っていたようで、今から考えると荒唐無ケイなシーンもありました。放映期間は短かったような気がします。
 「宇宙船シリカ」。これは人形劇で、少年科学者ピロ、その他の乗組員が「シリカ」という宇宙船に乗って、様々な星々を旅していく物語で、これも、とてもおもしろかった。ネットで調べたところによると、原作:星新一、音楽:富田勲、人形美術:竹田喜之助、といった、そうそうたるスタッフが製作しています。いろいろな宇宙人が登場して、奇想天外な物語が繰り広げられる。これは、今見ても、おもしろのではないかと思います。
 「隠密剣士」。これは、公儀隠密の主人公をめぐり、伊賀、甲賀、風魔といった忍者達が、驚くべき忍法を駆使して戦いを繰り広げる、というもの。
 で、忍者は、過去のものですから、夢をはせたのは、やはり宇宙。コドモだった私にとって、なりたいものは、宇宙探検家しかありませんでした。
 実は、これは今でも私の夢であります。赤色巨星を間近に観察し、様々な惑星に着陸して探索する。たとえ地球にもどれないとしても、もし可能ならば、宇宙へ旅立ちたいと思います。仮に私が富豪で、長寿と健康に恵まれたなら、生きているうちに月か火星には「観光旅行」ができるかもしれませんが、星々を旅して探検するというのは、見はてぬ夢。生まれてくるのが早すぎた!(2005年12月)

トップへ

なぜ宇宙は存在するのか

 「人間は、死んだらどうなるのか」「宇宙は、なぜあるのか」この2つが、私のコドモのころから抱いていた最大の疑問でした。前者については、私なりの結論を出しました。後者は?
 「神が創造したから」というのが、ひとつの答えでしょう。でも、これでは答えになっていません。なぜなら、この答えは、「なぜ神は宇宙は創造したのか」「神は宇宙を創造する前は何をしていたのか」「そもそも神はなぜ存在するのか」という、さらに難しい問いに置き換えられてしまうからです。なぜ、さらに難しいか、というと、これらの問いに対する答えは考えられるでしょうが、それらは、仮説つまり想像以外のものではありえず、論証が不可能だからです。なにより、前提として、神の存在が証明されなければなりません。多くの神学者や哲学者が神の存在を証明しようとしましたが、成功したとは思われません。デカルトは、人間が神についての観念を所有していることを、その根拠としていますが、「神についての観念」とは、精神分析的に解釈するのが正しいと私には思われます。
 宇宙の存在への問いに答えてくれそうなのは、哲学者と物理学者です。しかし、哲学者からは、納得のいく答えを得るのは期待薄です。哲学というものは、ある意味とらえどころがありません(少なくとも私には)。ヘーゲルあたりまでは、解説書の助けを借りれば、少しは理解できたような気になりますが、ハイデッガーの存在論など、私には、まったくお手上げです。
 物理学者は、この問いに対して、大きな手ががりを与えてくれています。宇宙は、百数十億年前にビッグバンと呼ばれる大爆発によって生まれたのだ、と。これは定説ですね。ビッグバンまでは、何もなかった。無であった。空間も物質も時間もなかった。無から宇宙が生じた。というワケです。しかし、無から有=存在が生じるとはどういうことでしょうか。物理学者は、数式を使って説明しようとします。しかし、数学に弱い私には・・・。
 そこで、私なりに自分を何とか納得させるため、自己流の解釈をしようと思います。それは、世界=宇宙については、「無はない。存在しかあり得ない」「無と呼ばれる状態も、それ自体、内に存在をはらんだものであり、真の無ではない」ということです。では、なぜ、「無はない。存在しかあり得ない」のか。それは、「そうでしかあり得ないから」です。算数でたとえましょう。「1足す1は2」。これは疑う余地がありません。「1足す1は2」というのは、そういう法則をだれかが決めたからではなく、論理的に「そうでしかあり得ないから」です。宇宙について「無はない。存在しかあり得ない」というのも、論理的に「そうでしかあり得ないから」ではないでしょうか。(あくまで、私のシロウト考えです)
(2005年12月)

トップへ

やりたい事

 私がやりたい事。今やっている「ボランティア活動」や「×××の研究」は、本職の方がまだ現役なので、打ち込んでやるというワケにはいきません。ほかにもやりたい事はいろいろあるのですが、純粋に趣味、レクリエーションとしてやってみたいことを思い付くまま挙げてみましょう。

 ・ハンググライダー・パラグライダー。私は、アウトドア派ではないのですが、これは楽しそう。
 ・スカイダイビング。刺激ありそう。
 ・スキューバダイビング。気持ちよさそう。
 ・社交ダンス。もう少し足が長かったら・・・。
 ・囲碁。囲碁のパソコン・ソフトも段々強くなってきているので、なかなか白では打てなくなりました。定石とかもっと勉強しないと人様相手では無理のようです。本当は将棋の方が好きなのですが、駒を落としてもらって勝ってもうれしくないし、基本ルールしか知らない私が平手で指せるようになるのは、この年齢ではまず無理か。
 ・ピアノ。時間があれば今からでも先生について習いたいのですが。

 よく、「定年退職したら何もすることがない」とか「生涯仕事を続けたい」なんて言っている人がいますが、私には信じられない話。人生、やれることはいろいろあるのに。人間としての感性を失ってしまった「社畜」の成れの果てとしか思えません。(2006年12月)

トップへ

楳図かずおが好き!〜『まことちゃん』の世界

 私は、オトナになってからは、マンガというものは、ほとんど読んでいないのですが、楳図かずおの作品だけは好きなんです。特にギャグマンガの『まことちゃん』が。全28巻の単行本は、今では稀少なものらしいのですが、私は全巻持っています。
 『まことちゃん』は、幼稚園児を主人公としたマンガなんですが、その特徴は、思いっきり下品なこと。シモネタも満載なんですが、なぜか、いやらしさを全然感じさせません。ギャクもほとんどがオリジナル=独創的で痛快。作者の才能を感じさせます。ばかばかしいと言えば、実にばかばかしいのですが、はやりのコトバでいえば、「いやし」になります。
 私がこのマンガに「いやし」を感じるのは、そのギャグの愉快さだけでなく、その登場人物の住む世界の不思議さにあります。マンガですから、現実世界と異なっているのは、アタリマエなのですが、ここで描かれている世界は、現実世界をベースとしていながら(主人公のモヨリの駅も現実にある「高田馬場」)、ちょっと変わった世界なのです。ギャクマンガですから、ドタバタが展開されるのですが、その背景にあるのは、実にのどかな、安らぎを感じさせる世界です。主人公の家庭は、3世代同居で、母親は専業主婦、という、このマンガが発表された、1970年代でも、都会では珍しい構成。しかも、食事も買い物も遊びも家族全員そろって、という行動様式。世代間の断絶がない。そして、真に悪意を持った人間がいない。悪事をたくらむ者がいても最期はピエロ役を演じて終結、という世界。その意味で現実世界の醜さを一時とはいえ忘れることができます。
 ヒトツだけ違和感を感じるのは、主人公が常にハナを垂らしていること。確かに、食料が(つまり栄養が)十分でなく、衛生面も良くなかった時代には、青バナを垂らしたコドモはタクサンいたでしょうが、70年代後半にそんなコドモがいるのは不自然。でも、これは、作者の頭の中でのコドモのイメージなのでしょう。楳図先生に敬意を表し、これは許す。サバラ! 
(2006年12月)

トップへ

スタッフが女性だけの理髪店

 私は、月に1度、片道1時間もかけて、ある床屋(理髪店)に通っています。その床屋のスタッフは、全員若い女性なのです。かなり大きな店で、理容師(または美容師)が10人以上います。なぜこの床屋に通っているのか? スケベ心からではありません。やはり女性の方がソフトで心地よいからです。
 以前、ある床屋にずっと行っていました。そこは、夫婦がやっている店でしたが、奥さんに当たるととても良いのですが、ダンナさんに当たるとひどいことになります。乱暴だし、クマのように大きな毛ムクジャラの手でゴシゴシ頭を洗われると力が入り過ぎて痛くて・・・。モチロン男性の理容師でもテイネイな人はいますが、女性なら間違いないだろうということで、今の店にしたわけです。
 スタッフが女性だけの理髪店は、他にもあって、中には爪のケアまでしてくれ、頭、右手、左手と、同時に3人のスタッフがついて、ハーレム状態になるところもあるようです。私は行ったことはありませんが。
 私が今行っている店は、ドリンク無料などサービスが良くて、評判がいいようです。日曜日などは、10席もあるのに、1時間待ちなんてこともあります。それでも、ほかの店にいく気にはなれません。(2011年12月)

トップへ

漢字の廃止を説く

 リンク カナモジカイ

 (このページにもどるには、ブラウザーの「もどる」ボタンを使用してください。)  

トップへ

英語が国際語になっていいのか

 グローバル化の進む現代社会。 いまや、国際語の必要性を認めない人はいないでしょう。こんなことを言うと、すでに英語が国際語ではないか、何をいまさら、と思う人もいるでしょう。確かに英語は世界でもっとも有力な言語であるに違いありません。しかし、地球上のだれもが使えるという状態にはなっていません。アメリカ国内でさえ英語の通じない地域があります。インドでは英語が公用語になっていますが、英語を話せるのは人口の数パーセントに過ぎません。日本だって、英語を不自由を感じずに使いこなせる人はどれだけいるでしょう。その意味では未だ真の国際語は出現していないと言っていいでしょう。
 とはいえ、英語が国際語としての地位を確かなものにしつつある(かのように見える)ことは否定できません。しかし、それで何の問題もないかと言うと、問題は大ありだ、と言わざるをえません。
 何が問題なのか。
 特に日本人は、英語というと反射的に「国際語」というイメージが浮かぶようですが、英語は「国語(正確には「民族語」)」でもある、ということはあまり考えないようです。どういうことかといいますと、日本語が日本人(および日本居住者)の母語であるのと同様、英語を母語としている民族がいるというです。日本人にとって英語は母語ではありませんから、相当の努力と時間をかけて学習しなければなりません。一方、英米人などの英語国民にとっては英語は母語ですから、自然に覚えてしまうので特段の努力や時間を要しません。これは大変な違いです。
 こんな例を考えてみましょう。Aさんというアメリカ人がいます。彼はハイスクールを出た後、日本に来て英会話学校で英語を教えています。特に教養があるワケでもなく、人格が高潔であるというワケでもなく、英語の教授法を学んだワケでもないのに、英語のネイティブである、というだけで先生とあがめられ、決して食うには困リません。一方Aさんに教わっている日本人の生徒Bさん。彼は大学まで出ても英語が満足に話せず、貴重な時間を割き、少なからぬ授業料を払って英会話学校に通っているのです。しかも学習には大変な努力が必要です。同じ人間でありながら母語が異なるだけでこの違い。民族の平等という原則に明らかに反しています。
 それだけではありません。このAさん、外国語を学んだことがありません。日本に住んでいながら日本語を学ぼうとする気も全然ありません。彼は、英語が有力な言語になったのは、英語を話す民族・国家の経済的・軍事的な力におっていることを知らず、英語がもっとも優れた言語であるからだと信じています。日本語などヤバンなコトバだと思っています。(「コンニチワ」「サヨナラ」ぐらいは社交上必要なので覚えましたが。)ですから、Aさんは外国語を学ぶ苦労を知りません。そのため、なかなか英語がうまくならない日本人を内心軽ベツしています。日本人を劣等民族だとさえ思っているのです。
 この例のAさんは実在している人物ではありませんが、Aさんのような人は決して少なくありません。モチロン英語国民がすべてこのような考え方をしているワケではありませんが、ネイティブであるというだけで、特権的立場に立っているというのは、英語国民すべてにあてはまることでしょう。(特にアメリカ人が自分の母語である英語が有力な言語であることに慢心して、外国語を学ぼうとしないのは、彼らにとって不幸なことです。言語によってものの見方や考え方に微妙な違いがあるということも知らないのですから。こんなジョークがあるのをごぞんじでしょうか。「二か国語を話せる人を何と言う? バイリンガル。では一か国語しか話せない人は? アメリカ人。」)
 さて、大変な犠牲をはらって英語を学んだ結果はどうでしょう。特に語学の才能に恵まれた人でない限り、最大限の努力をしてようやく普通のネイティブのレベルに達するかどうか、というところでしょう。それに、英語を日常使う言語としてはいないのですから、それ以上の(ネイティブをリードするような)レベルに達することは困難です。どんなに苦労して英語を学んでも、英語の主人公にはなり得ないのです。
 問題はまだあります。言語を学ぶということは、その背景にある文化を学ぶということでもあります。英語がが圧倒的な力を持つということは、英語国民の文化のみが世界に浸透するということになります。また、英語以外の言語の文化は日陰に置かれることにもなります。たとえば、文学ならば、英語で書かれたもののみが圧倒的に多くの読者を獲得するワケですから。
 このように、特定の民族の母語である英語が国際語になることは、
1 英語を母語とする特定の民族を圧倒的に有利な立場に置く。
2 英語を母語としない民族や英語以外の言語に対する偏見を生み出しかねない。
3 英語を母語とする民族の文化のみが世界に君臨する。
ということになりはしないでしょうか。これでいいのでしょうか。(2001年8月)

トップへ

無線仲間のみなさまへ

 本当にゴブサタしております。当局、もう何年もQRT状態が続いています。いま住んでいるところのロケーションがよくないのが第一の理由。第二の理由は、とにかく時間がない。自分の自由になる時間はほとんどパソコンの前に座っていますので。
 ところがです。まったく交信していないのに、QSLカードがドンドン届くのです。どうやら私のコールサインを使って交信しているヤツがいるらしいのです。それも結構DXと。そのうち、このニセモノさんのためにアワードでも申請してあげようかと思っています。hi。(2001年8月)

追記
 以前住んでいたところは、ケイタイの電波表示も2本しか立たないようなところでしたが、今の住まいは、ロケーションはまあまあです、でも現在、超多忙の身ですので、お空でお会いできるのはかなり先になると思います。(2004年12月)

トップへ

◇このホームページの内容の無断転載はお断りします。
◇このホームページへの無断リンクはお断りします。